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東京地方裁判所 平成7年(合わ)332号 判決 1998年10月23日

主文

被告人を死刑に処する。

理由

【背景事情】

一  被告人の身上、経歴

被告人は、昭和三五年一〇月、山口県美袮市において、父O1、母O2の次男として出生し、昭和三八年一月、S1、S2夫妻の養子となって、S夫妻に養育され、昭和五四年三月、山口県立の工業高校を卒業した後、土木建築会社、機械製造会社、教材販売会社、製薬会社等を転々とし、その間、営業活動等を通じ、俗世的な駆け引きや金銭本位の人付き合いなどに失望して、精神世界に興味を抱くようになり、東洋医学、超能力、神秘体験等に関心を深めていたところ、昭和六〇年五月ころ、雑誌で、「オウム真理教」(以下「教団」ともいう。)の前身である「オウム神仙の会」の創始者AことM(以下「A」という。)が空中浮揚をしたという写真や、魂の救済を目的としているという記事を見て興味を引かれ、Aに電話して話をしたことをきっかけに、昭和六〇年九月ころ、「オウム神仙の会」に入会し、仕事を続ける一方で、在家信徒として修行するなどしていたが、仕事に関連して人間不信を募らせ、Aから、出家をして「オウム神仙の会」の出版部門である「オウム出版」の営業責任者となるように勧められたこともあって、昭和六一年九月、持っていた自動車、家財道具等を布施として寄付し、「オウム神仙の会」に出家した。その後、被告人は、「オウム出版」の営業責任者として、「オウム出版」の発行する書籍を販売しながら、修行を続け、昭和六二年七月、Aから「ラージャヨーガ」と呼ばれる修行の段階を成就したと認定され、信徒の中で二番目の解脱者となって、「大師」の肩書を与えられ、教団幹部の地位に就いた。

二  教団の活動状況

1  Aは、昭和五九年二月ころ、ヨーガの修行等を目的とする「オウム神仙の会」を発足させ、昭和六二年七月ころ、「オウム真理教」と名称を変更した。その後、教団は、全国の大都市に支部を開設し、積極的に信徒勧誘活動を行った結果、信徒数が順調に増加した。Aは、原始仏教やチベット密教の教えを取り入れた独自の教義を説き、解脱に至るには、Aに帰依した上、Aの命令を忠実に実践して、功徳を積むことが必要であると説き、昭和六二年ころからは、Aの指示があれば人を殺すことさえも「ポア」と称して善行となるという内容の教義をも説き始めていた。

2  Aは、税金の優遇措置を受け、組織の拡大を図るため、教団を宗教法人にしようと考え、昭和六三年ころから、信徒のB(以下「B」という。)らを通じて、所轄庁である東京都と折衝を開始し、平成元年初めころには、東京都が世田谷区所在の教団の道場に対する現場調査を実施するなどし、教団の宗教法人化へ向けた動きが本格化してきた。Aは、同年三月初め、東京都知事に対し、宗教法人法に基づく教団規則認証の申請書を提出したが、未成年者の教団への出家や高額の布施などを巡って教団に関する苦情が相次いで寄せられていたことから、右申請書の正式受理が一時留保された。これに対し、Aは、同年四月下旬、多数の信徒とともに東京都庁に押し掛けて抗議行動を行い、同年六月には、東京都知事を相手方として不作為違法確認訴訟を提起するなどして、教団規則の認証を求める活動を行い、同年八月二五日、教団は、東京都知事から教団規則の認証を受け、同月二九日、宗教法人オウム真理教の設立登記をした。

3  さらに、Aは、平成二年二月施行の衆議院議員選挙に教団幹部とともに立候補しようと考え、平成元年八月に真理党を結成して、活発な選挙運動を展開した。

【犯行に至る経緯及び犯罪事実】

(第一の犯行に至る経緯)

一  甲野一郎の身上、経歴

甲野一郎(以下「甲野」という。)は、福岡県北九州市内の高校を卒業した後、株式会社東芝北九州工場に勤務し、昭和六二年ころから、福岡市内の教団の道場に通い、在家信徒として活動していたが、昭和六三年六月ころ、教団に出家し、静岡県富士宮市人穴<番地略>所在の教団の「富士山総本部」において、修行をするとともに、信徒に課せられる「ワーク」と称する仕事として、施設内の電気設備工事を行っていたが、同年一二月中旬ころからは、被告人が責任者を務める「オウム出版」の営業の「ワーク」に従事していた。

二  乙山二郎の遺体の処理

乙山二郎(以下「乙山」という。)は、昭和六二年春ころから教団の在家信徒であったが、昭和六三年九月下旬ころ、「富士山総本部」の道場で行われた修行に参加していた際、奇声を発して歩き回るなどの異常な言動をとったことから、Aの指示を受けた信徒が、乙山を浴室に連れていった上、その頭部に水を掛け、顔面を浴槽の水に浸けるなどの行為を繰り返していたところ、乙山は、脱力状態に陥って、呼吸が停止し、信徒らの救命措置を受けたものの、間もなく死亡した。当時は、前記のとおり、教団が支部を開設するなどして信徒数を増加させ、宗教法人化へ向けて東京都と折衝を行うなどしていた時期であったため、乙山の死亡を知ったAは、これを警察に届け出て公にすることは教団の組織拡大や宗教法人化の妨げになると考え、乙山の遺体を教団内で秘密裏に処理しようと企て、その夜、教団幹部のC(以下「C」という。)、D(以下「D」という。)、E、被告人らに対し、乙山の死亡を公にせずその遺体を内々に処理することを提言したところ、右の者ら全員がこれに賛成した。さらに、Aは、乙山の死亡を目撃した信徒を集め、同様の提言をして、これを承諾させ、遺体の処理方法として、「富士山総本部」の空地に煉瓦をコの字型に積んで作られた護摩壇で焼却するように指示した。Aの指示を受けた信徒らは、翌朝から、乙山の遺体をドラム缶に入れて、これを護摩壇に据え付け、長い時間掛けて焼却した後、その遺骨をすりつぶした上、湖に捨てて処分した(以下、乙山の死亡からその遺体処理までの一連の件を「乙山事件」という。)。

なお、甲野は、乙山が死亡した現場に居合わせてこれを目撃したほか、数名とともに乙山の遺体をドラム缶に入れて運搬し、遺体の焼却現場に立ち会うなどして乙山事件に関与した。

三  謀議の状況

1 甲野は、前記のとおり、「オウム出版」の営業の「ワーク」に従事していたが、昭和六三年一二月末、「オウム出版」の責任者である被告人に対し、「合わないワークをやっても功徳にならない。修行がしたい。」などと言って「富士山総本部」への再転属を申し出たため、被告人がAに甲野の希望を伝えたが、聞き入れられなかった。さらに、甲野は、平成元年一月中旬ころ、被告人に対し、「こういうワークで、解脱できるんですか。どうしても、家に戻りたいんです。自分なりに修行がしたいんです。」などと言って教団から脱会することを申し出るようになったため、被告人がAに甲野の右言動を報告し、「もしかしたら、あのことが原因じゃないですかね。」などと乙山事件との関係を示唆したところ、同月下旬、甲野は「富士山総本部」に再転属となったが、Aは、静岡県富士宮市上井出字葡萄藪<番地略>に設置されたコンテナ内の施錠された独房に甲野を閉じ込めて監禁した上、Aの説法を録音したテープを繰り返し聞かせるなどして、教団脱会の意思を翻すように迫った。

2 平成元年二月上旬ころ、Aは、「富士山総本部」にある教団施設「第一サティアン」四階の図書室に、被告人、C、D、Bらを集め、Cから、甲野の教団脱会の意思が固く、Aを殺すという発言までしている旨の報告を受けると、甲野が教団から脱会した場合には乙山事件を表沙汰にする可能性が高く、そうなれば教団の組織拡大や宗教法人化にとって大きな打撃になると危惧し、被告人らに対し、「甲野は、乙山の事件のことを知っているから、このまま抜けたんじゃ、困るからな。」「お前達、もう一度行って甲野の様子を見てこい。もし変わっていないなら、ポアするしかないな。」などと言って、甲野が教団脱会の意思やA殺害の意思を翻さない場合には甲野を殺害するように命じた上、その方法としてロープで首を締めるように指示し、被告人らがこれを承諾した。

(罪となるべき事実)

第一  被告人は、A、C、D、Bらと共謀の上、甲野(当時二一歳)が教団脱会の意思やA殺害の意思を翻さなければ甲野を殺害しようと企て、平成元年二月上旬ころ、静岡県富士宮市上井出字葡萄藪<番地略>に設置されたコンテナ内の独房において、Dが甲野の意思を確認したところ、甲野が教団を脱会できなければAを殺すかもしれない旨の返答をしたため、甲野を殺害することとし、甲野に対し、Bがロープを頚部に巻き、B及びCがその一方の端を、また、被告人及びDがその他方の端をそれぞれ引っ張って締め付け、さらに、Bが甲野の頭頂部と顎部を押さえて頚部を強く捻るなどし、よって、その場で、頚髄及び脳幹部損傷による呼吸及び循環停止により甲野を死亡させて殺害した。

(第二の犯行に至る経緯)

一  丙川三郎らの身上、経歴

丙川三郎(昭和三一年四月八日生)は、弁護士を志して、昭和五一年四月、東京大学法学部に入学し、在学中に、身体障害者のためのボランティア活動を通じて、当時立教大学に在籍していた丁村花子(昭和三五年二月二四日生)と知り合い、昭和五九年三月、結婚し、同年一〇月、司法試験に合格し、二年間の司法修習を経て、昭和六二年四月から、弁護士として横浜法律事務所に勤務していた。そして、昭和六三年八月二五日、丙川三郎と花子との間に長男四郎が誕生し、以後、家族三人で横浜市磯子区洋光台<番地略>サンコーポ萩原C棟<部屋番号略>に居住していた。

二  丙川三郎の活動状況

1 丙川三郎は、平成元年五月中旬ころ、信徒の親から、教団に入信して家出したまま音信不通になっている娘を教団から脱会させたいという相談を受け、これを契機として、同年六月下旬、他の弁護士とともに、オウム真理教被害対策弁護団を結成し、その後、丙川三郎が中心となり、子供の脱会を希望する信徒の親たちとの間で会合を開いて情報交換をするとともに、教団の活動の実態や音信不通となっている子供たちの所在を調査し、教団に対しては、子供たちの居場所を明らかにして、親子の面会をさせるように要求していた。一方、信徒の親たちは、東京都に対し、子供が教団に洗脳されて家出をしたまま帰ってこないなどと教団に関する苦情を寄せ、教団規則の認証をしないように働き掛けた。教団は、丙川三郎の申入れにより、同年八月初め、信徒で弁護士の資格を持つF(以下「F」という。)らの立会いの下で信徒とその親とを面会させたが、宗教法人の登記を終えた後は、親子の面会の申入れに一切応じなくなった。そこで、丙川三郎らは、教団規則の認証を受けてから一年以内であればその認証を取り消し得ることから、教団活動の違法性を追及するなどしてその認証の取消しを求めていくこととした。

また、教団においては、修行を飛躍的に進歩させる効果があるとして、高額の布施を取って、Aの血液を体内に取り入れる「血のイニシエーション」と称する儀式が行われており、教団の書籍の中で、Aの血液を京都大学医学部で研究した結果、血液中のDNAに秘密があることが分かったなどと記載されていたところ、丙川三郎らの調査により、同年九月二〇日過ぎころ、京都大学医学部で右のような研究を行った事実のないことが判明した。そこで、丙川三郎は、Fにこれを電話で伝え、「血のイニシエーション」について詳しく説明するように求めた。

2 週刊誌「サンデー毎日」の記者は、信徒の親たちを取材した上、平成元年一〇月第一週発売号から、「サンデー毎日」の誌上において、「オウム真理教の狂気」と題する特集記事の連載を開始し、教団が未成年者を家出させて親から隔離していること、借金をさせてまでも高額の布施を要求していること、Aの生血を飲ませるなどの修行を行っていることなど、教団の宗教的活動の問題点を指摘した。これに対し、Aは、信徒を引き連れて、「サンデー毎日」の編集部に押し掛け、編集長に抗議したり、その自宅付近で、編集長を誹謗するビラを貼るなどした。また、「サンデー毎日」の特集記事を受けて、他のマスコミも教団の宗教的活動の問題点を採り上げるようになり、信徒の親たちがテレビ番組に出演するなどしてその不当性を訴え、丙川三郎も、同月一六日に放送されたラジオ番組で、未成年者の出家や高額の布施の実態を説明して教団を批判した。

3 TBSは、教団に関する特集番組を制作し、その中に信徒の親たちや丙川三郎のインタビューも組み入れて、平成元年一〇月二七日に放映する予定でいたが、これを聞き付けたAは、F、D及び教団幹部のG(以下「G」という。)に対し、TBSに右インタビューを放映しないことを働き掛けるように指示した。そこで、F、D及びGは、同月二六日、TBSに赴き、右インタビューを放映しないように強く抗議して、右特集番組の放映を中止させたが、その過程で、丙川三郎のインタビューの録画を見て、丙川三郎が、京都大学医学部でAの血液について研究した事実はなく、「血のイニシエーション」には詐欺の疑いがあり、Aの超能力にも疑問があるなどと教団を痛烈に批判していることを知り、これをAに報告した。

4 一方、信徒の親たちは、組織化を進めることとし、平成元年一〇月二一日、各地の信徒の親たちが集まって、オウム真理教被害者の会(以下「被害者の会」という。)を結成し、同月二八日、被害者の会の第一回総会が開催され、教団規則の認証の取消しを求めていくことや、Aに対し公開の場で空中浮揚等を実演するように要求することを決め、その要求を記載した公開質問状をAに郵送した。

5 Aは、マスコミによる教団批判が活発となり、被害者の会が結成されるなど、教団を追及する気運が高まる中、教団幹部を集めてその対策について話し合った際、Fらに対し、被害者の会の指導的立場にある丙川三郎と面談するように指示した。そこで、F、D及びGは、平成元年一〇月三一日、横浜法律事務所に赴き、F及びGが丙川三郎に対し、「血のイニシエーション」について説明するなどしたが、丙川三郎は、これに納得せず、逆に、Fらに対し、被害者の会の目的は教団から子供を取り戻すことであること、「血のイニシエーション」は高額で、効果についても科学的な証明がないこと、被害者の会から教団を告訴する意向であることなどを伝えた上、「徹底的にやりますからね。」などと発言し、Fらは、右面談の内容をAに報告した。

三  謀議の状況

このように、被害者の会の指導的立場にある丙川三郎が教団批判を公然と行っていたばかりでなく、Fらと会った際に教団を徹底的に追及する姿勢を見せたことから、Aは、丙川三郎をこのまま放置すれば、教団規則の認証が取り消される可能性がある上、衆議院議員総選挙に向けての選挙活動にも影響があり、組織拡大に大きな障害になると危惧し、丙川三郎を殺害することを決意した。

平成元年一一月二日から三日に掛けての深夜、Aは、「富士山総本部」の教団施設「サティアンビル」四階の瞑想室に、被告人、C、D、B及び出家信徒で医師の資格を持つH(以下「H」という。)を集め、丙川三郎をこのまま放置した場合には教団の発展にとって大きな障害になることを強調した上、「丙川三郎をポアしなければならない。」などと言ってその殺害を命じ、具体的方法として、丙川三郎の自宅付近で待ち伏せ、帰宅途上の丙川三郎に対し、出家信徒で空手の有段者であるI(以下「I」という。)が殴って気絶させた上、自動車に拉致し、Hがあらかじめ用意した薬物を注射して殺害するように指示し、被告人ら五名がこれを了承した。これを受けて、Dは、Aが指名したIに丙川三郎を殺害する計画について説明し、さらに、Aは、Iに対し、薬物を注射する前に丙川三郎を気絶させるように命じ、Iがこれを承諾した。

四  犯行の準備状況

平成元年一一月三日朝、Aの指示を受けた被告人が、在家信徒であった九州在住の弁護士に電話を掛けて丙川三郎方の住所を聞き出し、HがCの調達した塩化カリウムの粉末を使って塩化カリウムの飽和水溶液を準備するなどした後、同日午前九時ころ、被告人、C、D、B、H及びIは、自動車二台に分乗して、「富士山総本部」を出発し、途中、教団がアジトとして使用していた東京都杉並区内の一軒家やアパートに立ち寄り、変装用の小道具を調達するとともに、二台の自動車に無線機を取り付けて相互に交信できるようにし、Hが教団施設「杉並道場」に立ち寄って、注射器を入手し、さらに、各自が変装用の洋服等を購入して着替えるなどし、同日夕方ころ、丙川三郎方付近に到着した。被告人らは、付近の様子や最寄り駅であるJR洋光台駅までの経路を下見するなどした後、二手に分かれて丙川三郎が帰ってくるのを待ち伏せすることとし、丙川三郎と面識のあるD及びBが洋光台駅付近に、また、被告人、C、H及びIが丙川三郎方付近にそれぞれ自動車を停めて待機していた。

一方、丙川三郎は、その日が祝日であったため、仕事に出ておらず、昼間、一家三人で買物に出掛けるなどした後は、自宅で過ごし、夜は、家族とともに就寝していた。

被告人は、数時間経過しても、丙川三郎が帰宅しないことから、家にいるのではないかと考え、同日午後一〇時ころ、丙川三郎方の様子を窺いに行き、玄関のドアのノブに手を掛けて手前に引くと、ドアが施錠されていなかったので、丙川三郎が既に帰宅しているものと考え、洋光台駅付近で待機しているDらにその旨を伝えたところ、Aの指示を仰ぐこととなり、DがAに電話を掛け、丙川三郎が帰ってくるのを待ったが現れないことや、丙川三郎方の玄関のドアが施錠されておらず、帰宅している可能性があることを報告して、その指示を仰ぐと、Aは、Dに対し、丙川三郎が帰宅しているならば、家族も一緒に殺害するように犯行計画を変更して、犯行時刻を寝静まった遅い時間にすることを命じた。Dは、丙川三郎方付近で待機している被告人らの所に戻って、被告人及びCに対し、Aの右命令を伝え、被告人、C、D及びBの間で、犯行時刻を被告人の提案した翌四日午前三時とすることに決め、H及びIに対し、丙川三郎が家にいる場合には午前三時に家族共々殺害する旨犯行計画の変更を伝えた。

その後、被告人らは、再び、丙川三郎方付近及び洋光台駅付近の二手に分かれて、丙川三郎が帰ってくるのを待っていたが、終電になっても、現れなかったため、一旦、丙川三郎方付近に集まって、それぞれ自動車の中で仮眠を取るなどした後、翌四日午前三時ころ、無施錠の玄関から丙川三郎方に侵入し、Dが一家三人の寝ている姿を確認した。

(罪となるべき事実)

第二 被告人は、A、C,D,B,H及びIと共謀の上、丙川三郎(当時三三歳)、その妻丙川花子(当時二九歳)及びその長男丙川四郎(当時一歳)を殺害しようと企て、平成元年一一月四日未明ころ、横浜市磯子区洋光台<番地略>サンコーポ萩原C棟<部屋番号略>丙川三郎方において、

一  丙川三郎に対し、Iが馬乗りになって手拳で顔面を数回殴打し、Dが手で両足を押さえ付け、さらに、被告人が頚部に右腕を巻き付けて締め付けるなどし、よって、その場で、丙川三郎を窒息死させて殺害し、

二  丙川花子に対し、Bが体の上に乗り掛かって手で口を塞ぎ、Iが腹部を蹴り付け、Dらが両手で首を締め、さらに、Hが着衣の襟等を強く引いて締め付けるなどし、よって、その場で、丙川花子を窒息死させて殺害し、

三  丙川四郎に対し、Hがタオルで顔面を覆って押さえ付け、さらに、Bが手で口を塞ぐなどし、よって、その場で、丙川四郎を窒息死させて殺害した。

【証拠の標目】<省略>

【争点に対する判断】

一  弁護人及び検察官の各主張

弁護人は、被告人には判示各事実について自首が成立し、刑法(平成七年法律第九一号による改正前のもの)四二条一項を適用して自首減軽をすべきである旨主張する。これに対し、検察官は、判示第一の事実(以下「甲野殺害事件」という。)について自首が成立することは争わないものの、判示第二の各事実(以下「丙川一家殺害事件」という。)については自首が成立しない旨主張し、その理由として、<1>捜査官は、既に、被告人が丙川一家殺害事件の重要な部分に関与した犯人の一人であるという疑いを強めており、そのような時期に被告人が自白したのであるから、「捜査機関に発覚する前」の供述ではないこと、<2>被告人は、捜査官から度重なる説得と質問を受けた結果やむを得ず自白するに至ったのであるから、「自発的申告」ではないこと、<3>被告人は、自らが丙川三郎の頚部を締め付けるなどの行為をした事実を隠して自白したのであるから、「犯罪事実の告知」ではないし、犯罪事実の中の重要な要素が欠落した供述では、捜査機関に対し当該犯罪事実について「自己の処罰を求めた告知」にもならないことを挙げる。そこで、丙川一家殺害事件に関する自首の成否及び自首減軽の当否について説明することとする。

二  丙川一家殺害事件に関する自首の成否

1  自白に至った経緯

関係証拠によれば、被告人が丙川一家殺害事件について捜査官に自白した経緯として、以下の事実が認められる。

(1) 捜査機関は、丙川一家が行方不明になった後、丙川一家失踪事件として捜査を開始し、確たる証拠はなかったものの、教団が右事件に関与しているのではないかという疑いを抱いていたところ、被告人が当時教団幹部の地位にあり、丙川一家が行方不明になってから約三か月後に教団を脱会し、しかも、丙川四郎の遺体を埋めた場所を図示するなどした書面を神奈川県警察に投書した本人であるとの疑いがあったことなどから、丙川一家失踪事件について何らかの情報を持っているものと考え、平成二年九月、被告人に事情聴取をしたが、教団の関与を一切否定され、その後、被告人を継続捜査の対象者と位置付けて、連絡を取り合うなどしていたこと、

(2) 神奈川県警察本部刑事部捜査第一課巡査部長であった志賀俊明(以下「志賀」という。)は、平成七年二月二八日に発生した目黒公証役場事務長拉致事件及び同年三月二〇日に発生した地下鉄サリン事件に関し、教団の犯行である旨報道されるなどしていたことから、被告人に心理的動揺や変化が生じているのではないかと考え、同月二八日ころ、事情聴取をしようと、山口県宇部市所在の被告人方を訪れたが、被告人は中国に渡航していて不在であったこと、

(3) 志賀は、同年四月五日、再び山口県宇部市に行って被告人から事情聴取をすることとしたが、この時点では、教団が丙川一家失踪事件に関与しているという疑いを抱いていたものの、これを裏付けるだけの証拠がなかったばかりでなく、被告人が右事件に関わった犯人の一人であるという見方はしておらず、単に被告人が右事件について何らかの情報を握っている可能性があるという程度の認識しかなかったこと、

(4) 志賀は、同日午後一一時ころ、同僚の警察官一名とともに被告人方を訪れ、二時間程度、被告人から事情聴取をし、滋賀らが「丙川事件もオウムがやったとすれば、あなた、知っているでしょう。」「何とか話してほしい。」などと言ったり、自首制度の存在を説明するなどして、説得したところ、被告人は、断定しないまでも、丙川一家失踪事件が教団の犯行であることを示唆する発言をしたこと、

(5) 翌六日午前一一時ころから午後三時ころまでの間、山口県宇部市所在のホテルの部屋において、被告人に対する事情聴取が行われ、志賀らが「オウムをつぶすためにどうしても知っていることがあれば話してほしい。」などと言って説得したところ、被告人は、丙川一家失踪事件が教団の犯行である旨の断片的な供述や、右事件に関し教団をつぶすだけの確たる証拠を握っている旨の供述をしたが、謀議の状況、実行犯の特定、犯行態様等に関する供述はしなかったこと、

(6) 同日深夜から翌七日未明に掛けて、被告人に対する事情聴取が行われ、その際、被告人は、丙川一家殺害事件が教団の犯行であり、被告人を含む六名がAから丙川三郎殺害の指示を受けた後、丙川三郎方の下見をするなど犯行の準備をし、丙川三郎方に入って一家三人を殺害し、犯行後遺体を運び出すなどの罪証隠滅行為を行ったこと等を供述するとともに、「丙川親子に対して、後悔している。罪に服したい。」と言ったが、被告人が丙川三郎の頚部を締め付けた点は供述せず、玄関で見張りをしていた旨の虚偽の供述をしたこと、

(7) 被告人が自白した動機は、地下鉄サリン事件の後に警察による教団施設への一斉捜索が行われたのに警察庁長官狙撃事件が起きたので、被告人も教団に生命を狙われていて、いつ殺されるか分からないという恐怖感を募らせ、警察に保護を求めたいという気持ち、丙川一家の遺体の場所を話して教団をつぶすことができるのは自分しかいないという使命感、本件各犯行に対する反省、悔悟などが交錯していたためであること、

以上の事実が認められる。

2  「捜査機関に発覚する前」の要件について

前記1(1)、(6)のとおり、捜査機関は、当初から、丙川一家殺害事件ではなく丙川一家失踪事件として捜査を進め、被告人の自白によって初めて丙川一家が殺害された事実を知ったのであるから、丙川一家失踪事件が犯罪に基づくものと考えていたとしても、具体的に特定の犯罪事実を知っていたとはいえないばかりでなく、前記1(3)のとおり、志賀らは、被告人に事情聴取を始めた平成七年四月五日の時点において、教団が丙川一家失踪事件に関与しているという疑いを抱いていたものの、その疑いは推測の域を超えるものではなかったし、その後、徐々に、被告人が重要な情報を握っているという心証を強めていったことは認められるけれども、被告人が実行犯の一人であるという嫌疑を抱いた事実までは認められない。

そうすると、被告人が自白を始めた当時、捜査機関が相当の合理的根拠によって犯罪を知り、かつ、犯人を特定していたということはできず、被告人の自白は「捜査機関に発覚する前」になされたというべきである。

3  「自発的申告」の要件について

前記1(3)のとおり、捜査機関は、教団が丙川一家失踪事件に関与していることを裏付けるだけの証拠を持っておらず、まして被告人が右事件に関わった犯人の一人であるという見方をしていなかったのであるから、被告人が自白しなければ丙川一家殺害事件の犯人であることが発覚するおそれはほとんどない状況にあったのであり、それがために、捜査官としては、前記1(4)のとおり、被告人に証拠を示して追及することはできず、「何とか話してほしい。」などと言ったり、自首制度の存在を説明するなどして、説得するしかなく、被告人が捜査官の説得に応じない場合には、それ以上被告人を追及するすべがなかったのである。また、被告人が丙川一家殺害事件について自白したのは、前記1(7)のとおり、身の危険を感じて警察に保護してもらいたいという切迫した気持ちもあったからであり、志賀らの説得のみによって被告人がやむを得ず自白するに至ったとはいい難い。

以上に照らすと、被告人は、自分の方から丙川一家殺害事件について自白したとみることができるのであり、被告人が平成七年四月五日の時点では自白せず、その後段階的に供述していったという経緯や、その間、志賀らの説得があったという事実にもかかわらず、「自発的申告」の要件を充たしているというべきである。

4  「犯罪事実の申告」及び「自己の処罰を求める告知」の要件について

被告人が丙川三郎の頚部を締め付けた事実が犯情に関わる重要な事実であることは検察官の指摘するとおりであるが、前記1(6)の被告人の自白の内容からすれば、被告人に殺人罪の共同正犯が成立することは明らかであり、また、被告人が自分自身の関与した部分を除いて概ね正直に供述していたことなどを併せ考えれば、被告人の自白は「犯罪事実の申告」とみることができる上、前記1(6)のとおり、被告人は自白の際に「罪に服したい。」と供述していたのであるから、丙川一家殺害事件について「自己の処罰を求める告知」をしたものと評価することができる。

5  結論

以上のとおりであって、被告人が平成七年四月七日志賀らに対し丙川一家殺害事件についてした自白は自首の要件を充たしており、自首が成立する。

三  自首減軽の当否

右のとおり被告人が自首したことにより、丙川一家殺害事件の事案の解明に大きく貢献したことは、弁護人の指摘するとおりである。

この点、検察官は、被告人の供述がなかったとしても、丙川一家殺害事件の真相は早晩明らかになっていたのであるから、被告人の供述がその解明に貢献した度合いはさほど大きいとはいえないと主張するが、被告人の自白が右事件の共犯者の逮捕につながったわけではないものの、前記二1(3)のとおり、当時は、丙川一家失踪事件の犯人の特定どころか、これが教団の犯行であることを裏付ける証拠もなかったのであり、このような捜査の進捗状況からすれば、被告人の自白が突破口となって、共犯者の自白を引き出したとみるのが自然であり、被告人の自首が丙川一家殺害事件の解明に大きく貢献したものと認めるのが相当である。

また、甲野殺害事件に関しては、その存在自体が闇に葬られていた状況の中で、被告人が自首して、犯罪事実を明るみに出し、その解決に寄与したことが明らかである。

しかし、被告人が本件各事件について自首した動機は前記二1(7)のとおりであり、被告人の供述するところによれば、その主要な動機は、真摯な反省ではなく、教団によって殺されることから身を守るという自己保身であったといわざるを得ない。このことは、被告人が包み隠さず全てを供述するのではなく、自己の刑責が軽くなることを慮って、自らが丙川三郎の首を締め付けたことを隠し、玄関で見張りをしていたなどと虚偽の供述をしたことにも表われている。さらに、被告人が丙川四郎の遺体を埋めた場所を図示するなどした書面を神奈川県警察等に投書したのは、遺族らの気持ちを思い遣ってのことではなく、教団を脱会する際に持ち逃げした多額の現金を教団に取り戻されたので、以後の生活費を教団からせしめるとともに、証拠を握っていることを見せ付けて教団から生命を狙われるのを防ぐためであり、もっぱら欲得と打算に根差した行動である。だからこそ、被告人は、平成二年九月に神奈川県警察から事情聴取を受けた際に、平然と嘘をつき、それ以降、何度も機会がありながら、自首はおろか核心に触れる情報提供もしなかったのである。被告人が、報道等を通じ、懸命に救出活動を続ける遺族の悲痛な姿を目にしながら、自分の苦しみも同じレベルであるなどと考えて、丙川一家殺害事件への関与を隠し続け、しかも、捜査の進捗状況を確認する目的で、捜査への協力者を装って捜査機関との連絡を保ち、多額の取材協力費を得てマスコミとも接触していた態度には、したたかさと狡猾さが認められ、このような態度がAと縁を切った後のものであることからすると、人間性の欠如という被告人の人格の一端を垣間見ることができる。

以上のとおりの経緯を経た後の自首であること、自首の主要な動機が真摯な反省ではなく自己保身であったこと、その他後記「量刑の理由」で指摘する諸事情に鑑みると、自首減軽をするのは相当でないというべきである。

【弁護人の主張に対する判断】

一  弁護人は、被告人が教団からマインド・コントロールを受け、Aの指示に絶対的に従うのが最高の修行であって、Aの命令であれば殺人さえも善行となり救済となるという教義を擦り込まれ、かつ、Aの指示に従わなければ地獄に落ちるという恐怖感を植え付けられており、そのような心理状態の下で本件各犯行に及んだのであるから、被告人には、<1>行動統御能力が欠けていたか、少なくとも行動統御能力が狂わされていたのであって、本件各犯行当時、心神耗弱の状態にあり、<2>適法行為の期待可能性がないか、あるいはこれが減退しており、刑の減軽が認められるべきである旨主張するので、判断を示すこととする。

二  マインド・コントロールの概念には学問的に定まった定義がなく、マインド・コントロールの影響下にあったからといって、直ちに責任能力や期待可能性の有無、程度に結び付くものではないと考えられることからすると、被告人が当時マインド・コントロールの影響下にあったかどうかはさておくとし、教団においては、Aの指示に従うことが真理の実践で、最高の修行であると説かれ、かつ、Aの指示に従わなければ地獄に落ちるという恐怖感が煽られており、そのような特殊な環境の中で、被告人が一定程度価値基準の変容を受け、Aの説く教義を信じて本件各犯行に及んだことは否定できない。

三  しかし、関係証拠上、被告人が、各犯行時において、幻覚、妄想等を伴う異常で病的な精神状態になかったことは明らかである上、各犯行の謀議の段階から犯行の準備、実行行為、罪証隠滅に至るまでの一連の流れの中で、犯行の遂行に向け、又は犯行を隠蔽するために、冷静で合目的的な行動をとっており、各犯行の動機も、教団の組織の防衛と自分自身の修行の深化という合理的で了解可能なものであり、さらに、被告人が、公判廷において、各犯行が一般社会において法律上許されない犯罪行為に当たると理解していた旨供述していることにも照らすと、被告人は、本件各犯行当時、行為の是非善悪を弁識しこれに従って行動する能力が著しく減退していなかったものと認めることができる。

四  次に、期待可能性の点についてみてみると、関係証拠によれば、各犯行当時、Aの権威はさほど強化されておらず、被告人は、出家後、「オウム出版」の営業の責任者として一般社会との接触を保ち、Aの言動について疑問を抱くことも少なくなかった上、丙川一家殺害事件から約三か月後に、比較的あっさりとAに見切りを付けて脱会し、しかも、その際、教団から大金を持ち出し、その後も、Aと渡り合って金を出させたことが認められる。また、被告人は、Aの指示に従わなければAに縁を切られて永久に破門されることが怖かった旨供述しているが、一方で、各犯行に当たり、Aの指示に従うことが真理の実践であり修行であると思う気持ちの方が、Aに縁を切られて永久に破門されるという気持ちよりも強かった旨供述し、加えて、前記のとおり、被告人が自分の方から教団を脱会してAと縁を切ったことにも照らせば、Aの指示に従わない場合の恐怖感はそれほど大きなものではなかったというべきである。結局のところ、被告人は、Aから指示を受けた際、それが犯罪行為であることを認識しつつ、自らの判断と意思に基づき、Aの指示に従うことを選択して本件各犯行に及んだにすぎないのである。そうすると、適法行為の期待可能性があったことは明らかであり、また、被告人が一定程度価値基準の変容を受け、Aの説く教義を信じて本件各犯行に及んだことについては、これを期待可能性の減退ととらえ、刑の減軽事由に当たるとする弁護人の見解には与し難く、量刑事情の一つとして考慮すれば足りると考えられる。

五  したがって、弁護人の各主張は採用しない。

【法令の適用】

被告人の判示第一及び第二の一ないし三の各所為はいずれも平成七年法律第九一号附則二条一項により同法による改正前の刑法六〇条、一九九条にそれぞれ該当するところ、各所定刑中判示第一の罪については有期懲役刑を、判示第二の一ないし三の各罪についてはいずれも死刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四六条一項本文、一〇条により刑及び犯情の最も重い判示第二の一の罪の刑で処断して他の刑を科さず、被告人を死刑に処し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

【量刑の理由】

一  本件は、教団幹部の地位にあった被告人が、A及び複数の教団幹部らと共謀の上、教団内で修行中に急死した信徒の遺体を秘密裏に処理した件が明るみに出ないように、脱会を希望した出家信徒を殺害し(判示第一の事実)、教団批判の中心的人物であった弁護士とその家族二名を殺害した(判示第二の一ないし三の各事実)という合計四名に対する殺人の事案である。

二  甲野殺害事件は、前記の乙山事件に関与していた甲野が教団からの脱会を申し出たのに対し、Aらが、修行の名の下に、コンテナ内の施錠された独房に甲野を監禁して、脱会の意思を翻すように迫ったものの、甲野の意思が固く、Aを殺すという発言をしたことから、甲野が脱会後乙山事件を表沙汰にする可能性が高く、教団の宗教法人化や組織拡大に大きな打撃となることをおそれ、口封じのため、甲野を殺害したものであり、教団の利益のためならば人命を奪うことすら意に介さない身勝手な犯行であり、動機に酌むべき余地はない。

犯行態様をみると、Aが教団幹部らを集めて甲野の殺害を命じ、これに従った数名が敢行した組織的犯行である上、被告人らは、コンテナ内の独房で、両手、両足を縛られて無抵抗の状態にあった甲野に対し、虚言を弄して目隠しをし、準備していたロープを突然首に掛けて四人掛かりで引っ張り、必死に暴れる甲野を数人で押さえ付けている間に、共犯者の一人が頭頂部と顎部に手を掛け、頚部を捻って殺害したのであり、残忍で、非情な犯行である。被告人らは、甲野を殺害した後、遺体をドラム缶に入れ、灯油を掛けるなどした上、何時間にもわたって焼却作業を続け、遺灰を教団施設の敷地に撒いて処分したのであり、罪証隠滅の態様も甚だ悪質である。

甲野は、解脱に憧れて教団に出家し、教団を信じていたのに、その幹部らの手により、恐怖の中で苦しみながら二一歳の生命を奪われたのである。甲野がたまたま乙山事件に関わり、その後、Aを殺すと言うほど脱会を望んだことが甲野殺害事件の一因となっているとはいえ、殺されるまでのいわれはなく、右の点を甲野の落ち度として強調すべきではない。

甲野の両親は、長男が教団に出家して音信不通となって以来、手を尽くしてその行方を探した末、六年以上も経って、突然その死を知らされ、遺骨すら手にできなかったのであり、二人とも、捜査官に対し、悲痛な心境と激しい怒りを吐露して、被告人らの極刑を望む供述をしている。しかるに、被告人らは、両親に対して何ら慰謝の措置を講じていない。

被告人は、謀議の場でAから甲野の殺害を指示され、甲野の頚部に掛けられたロープを共犯者三名とともに引っ張り、犯行後は、荷台に遺体の乗せられた自動車を運転してこれを運び、煉瓦を積んで護摩壇を作り、これに火を付けたり、木をくべたりするなどして遺体の焼却作業を行ったのであり、他の実行犯に劣らない重要な役割を果たしたのである。

三  丙川一家殺害事件は、弁護士の丙川三郎が、信徒の親たちによって結成された被害者の会の指導的立場にあり、教団批判の急先鋒として活動していたことから、Aらが、丙川三郎を放置すれば教団の発展にとって大きな障害になると危惧し、家族共々殺害したものであり、その動機は、もっぱら教団の利益追求に尽きるのであって、人命軽視も甚だしい。丙川三郎は弁護士として正当な活動を行っていたのに、Aらは、教団の問題点を一切顧ることなく、丙川一家三人を抹殺したのであり、あまりにも短絡的で、常軌を逸した犯行というほかない。丙川一家殺害事件は、Aの指示であれば、教団の活動を妨害して悪業を積んでいる者を殺害しても正当化されるという独善的な教義を背景としているが、このような教義自体、到底許されるものではなく、たとえ宗教的信念に基づいて行ったとしても、その刑責は些かも軽減されるべきではない。

犯行態様をみると、首謀者であるAと複数の教団幹部らが犯行の具体的方法等について謀議を遂げた上、被告人ら六名が、あらかじめ、犯行の際に使用する自動車、薬物、注射器、変装用の衣類等を用意するなど、周到な準備をして敢行したのであり、計画性、組織性が認められ、また、人々が寝静まった時間を狙って丙川三郎方に押し入り、就寝中の三人に対し、顔面を手拳で殴打し、あるいは、腹部に膝を打ち付けるなどした上、首を締め付け、無抵抗の幼児に対してまでも、タオルで顔を覆って口を押さえ付けるなどし、全員を窒息死させたのであり、残虐極まる犯行である。とりわけ、花子が自ら絶命の危機に瀕した状況の中で最後の力を振り絞って、「子どもだけはお願い。」と四郎の延命を哀願したにもかかわらず、いささかの躊躇も逡巡も見せずに、いたいけな幼児の生命を奪った凶行には戦慄を禁じ得ず、被告人らの冷酷さと非情さを窺わせるに十分である。当初は、丙川三郎一人を狙った犯行であったが、丙川三郎が家にいることを察知するや、計画を変更して、関係のない家族をも殺害したのであって、そこには、何としても丙川三郎の殺害を完遂する強固な意思を見て取ることができる。

もとより、丙川三郎らには何の落ち度もなく、三人のかけがえのない生命が教団の理不尽な犯行の犠牲になったのであり、悲惨というほかなく、結果はまことに重大である。深夜、就寝中に突然襲われた際の恐怖感、肉体的苦痛は想像に難くなく、高校時代からの夢が叶って弁護士の道を歩み始めた丙川三郎と花子との間に四郎が誕生した若い一家の将来に思いを致すとき、無念さは察するに余りある。

丙川一家の遺族は、五年以上にわたり三人の安否さえ分からないまま、その生存を信じて帰りを待ち続け、精力的に救出活動を続けてきた挙げ句、悲報に接したのであって、その間の物心両面での負担、三人の死を知った際の落胆と怒りは計り知れない。丙川三郎の母親は、捜査官に対し、耐え難い苦しみと深い哀しみを切々と語り、花子の父親も、公判廷において、救出活動を行っていた際の心痛と被告人に対する峻烈な処罰感情を証言しているのであり、遺族が被告人に対して極刑を望むのは当然といわなければならない。このような遺族に対し、犯行に関与した教団幹部らは何ら慰謝の措置を講じていないのである。

犯行後、被告人らは、遺体を布団ごと運び出し、布団、衣類等を焼却した上、警察の連繋を妨げる目的で、各遺体を長野県、新潟県及び富山県の山奥の地中に埋め、また、犯行の際使用した自動車の床のシートを張り替え、塗装も塗り直し、実行犯の指紋を除去するなど、罪証隠滅工作を入念に行い、完全犯罪を企図したのであり、犯行後の事情についても、教団の卑劣な体質を如実に示している。三人の遺体は、六年近く経過してようやく発見されるに至ったが、いずれも、屍蝋化し、一部は白骨化した状態で発見されたのであって、無惨というほかない。加えて、Aや、被告人を含む実行犯らは、捜査機関の追及をかわすため、犯行後間もなく外国へ行き、教団の関与を明確に否定する記者会見を行ったばかりでなく、身内がらみの犯行という発言すらしたのであり、反省、悔悟の念は微塵も感じられない。

丙川一家殺害事件は、弁護士の一家が突然行方不明になった事件として、大々的に報道され、遺族や同僚の弁護士が中心となって、全国的に救出活動が展開されたが、結局は、五年数か月後、三人の遺体が発掘されて、人々に大きな衝撃を与えたのであり、その社会的影響は甚大である。

ところで、被告人は、丙川一家殺害事件の謀議に加わり、Aの指示に従って、在家信徒であった弁護士から丙川三郎方の住所を聞き出し、自らの判断で、丙川三郎方の様子を窺いに行って、玄関のドアが施錠されていないことを確認し、計画の変更後、犯行時間を午前三時にすることを共犯者に提案し、犯行の際には、丙川三郎の頸部を右腕で締め付けて死亡させ、犯行後も、一人で、畳に落ちた血を拭き取り、はずれた襖を元に戻し、その後、長野県ほか二県に行って遺体を埋める作業にも深く関わるなどしたのであり、犯行の準備段階から罪証隠滅行為に至るまで終始積極的に関与し、重要な役割を果たした。また、被告人は、公判廷において、平成七年四月の時点で多額の年金保険の受取人を妻の名義に変更した旨を供述しており、このような蓄財を有していながら、遺族に対して全く被害弁償をしていない点も看過し難い事情である。

四  他方、被告人には、次のような斟酌し得る事情が存在する。

すなわち、被告は、平成七年四月七日、警察官に対し本件各犯行について自首し、その後、丙川三郎の首を締め付けたことをも自白してからは、捜査、公判を通じ概ね一貫して真実を語っており、本件各事案の解明に大きく貢献した。また、被告人は、真実を明らかにすることが自分の使命であるとして、自らの法廷のみならず共犯者の法廷においても、積極的に供述し、時には涙を見せるなどして、被告人なりに反省の態度を示している。罪体に関する情状をみると、丙川一家殺害事件については、当初から一家三名の殺害を計画していたわけではないこと、被告人は、本件各犯行の謀議に加わっていたものの、犯行の発案や計画の立案はAと一部の幹部によってなされ、もっぱら犯行計画を聞いて、これを実行する立場にあったこと、被告人が教団における生活の中で一定程度価値基準の変容を受け、Aの命令に従うことが真理の実践であると信じて本件各犯行に及んだことなどが認められる。そのほか、被告人には前科、前歴がないこと、生後間もない時期に養子に出され、養親の下で養育されるなど、生い立ちに不遇な面もあり、これに起因する被告人の愛情欲求がAに父親像を求め、教団に入信する遠因となったといい得ること、教団に入信するまでは、挫折と失敗を繰り返し、職を転々としながらも、真面目に生きていたこと、教団を脱会した後は、学習塾で子供たちを教えながら普通の生活を送ってきたことなどの事情も指摘することができる。

五  しかしながら、前記のとおりの本件各犯行の罪質、動機・目的、態様、結果の重大性、遺族の処罰感情、社会に与えた影響、被告人の果たした役割、犯行後の諸事情等に鑑みると、被告人の刑事責任はあまりにも重く、被告人のために斟酌し得る事情を最大限考慮し、かつ、死刑が真にやむを得ない場合にのみ科し得る究極の刑罰であることに思いを致しても、本件は死刑を避けてあえて無期懲役に処する事案とは一線を画すものであり、被告人に対しては極刑を持って臨まざるを得ない。

(裁判長裁判官 山室 惠 裁判官 近藤宏子 裁判官 友重雅裕は差し支えにつき署名押印をすることができない。裁判長裁判官 山室 惠)

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